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K-POPにハマった話。

先日、経済学部の友人から「単位も取り終わったし文学部の韓国語の授業を取りたいんだけどどう思う?」と質問を受けた。その友人はそれまで一切Kpopに興味がなかったが、Nizi projectにハマって今ではTwiceの大ファンだという。

確かに自分の周りでも、Nizi projectやDynamite大ヒットの影響でKpopファンは急激に増えたと思う。かくいう私もTwiceBTSをたまに聴くようになったし、以前は全く興味がなかったソウルに行ってみたいと思うようにもなった。

コンテンツパワーの威力

しかしながら改めて考えてみると、コンテンツパワーの威力というものはすごいものである。アメリカを挟んだ間接的な同盟国とはいえ、韓国側から見れば日本は仮想敵国でもある。実際、両国関係はここ数年悪化の一途を辿っていった。にもかからわず日本国内の韓国語学習者は増え、J.Y.Parkが理想の上司に選ばれるなど、韓国文化に親しみを持った日本人は急激に増えた。日本人の対韓国観に及ぼしたNizi projectの影響は小さくないだろう。

 

コンテンツによる支配

現実問題、20世紀後半以降は他国を圧倒するのに戦争というのはあまり有効的な手段ではなくなった。その代わりにメディアなどを通したコンテンツが有力な手段にとって変わった。

文化帝国論研究者であるシラーは

 

『第二次世界大戦後、旧来の帝国主義は崩壊したものと思われていたが、軍事介入は最後の手段となっただけで、今度は文化的な方策を用いて先進国は外国の民衆を支配するようになった。』

 

と述べている。特に敗戦後の日本はいい例で、WGIPプログラムをはじめとして、言論空間における制圧、フルブライト奨学制度のような優秀な学生の囲い込みなどを行なった結果、日本は敗戦国なのに親米というベトナムと並んで世界的に珍しい国となった。

 

またコンテンツパワーが戦争より優れているの点としては、一度文化として定着すると直接的に利益を求めにいかなくても、イデオロギーによって具体性が与えられるということにある。つまり国民が自律的に形成したコンセンサスによって半永久的に利益を上げ続けることができるのである。この点を非常にうまく活用したのがウォルトディズニーカンパニーである。文化帝国とはメディア戦略でもあるが、ディズニーはさまざまなチャンネルを通して徹底的にこの力を行使している。皮肉にもディズニーにコンテンツパワーの威力を初めて知らしめたのは、オリエンタルランド側の提案ではあったのだが。。。

 

貿易は映画に続く

つまり、今では「貿易は映画に続く」とまで言われるように、映画やアニメなどの文化を使って、その国を囲い込むことが重要になったということである。

この点、韓国はコンテンツパワーを非常にうまく使いこなせてると言えるのではないだろうか。2000年代前半においてはアジアの地域大国といえば、日本が圧倒的であった。しかしながら、最近のアメリカのテレビ番組における韓国文化の流入は激しい。アカデミー作品賞ではアジアの作品として初めてパラサイトが受賞したし、グラミー賞でもDynamiteがパフォーマンスされた。その後の批判を含めて、現地では大きなセンセーショナルを呼んでいる。

日本はコンテンツパワーを生み出せるか

では果たして、日本の漫画文化や芸能といった文化がコンテンツパワーになりうるかどうか。これ正直は難しいところがあるだろう。まずコンテンツパワーになるためには、抽象性、普遍性ゆえに容易に他国が容易に模倣できるものではないといけない。

先ほど、ディズニーがコンテンツパワーを非常にうまく活用していると述べたが、わかりやすい例を挙げるとアメリカのミッキーマウスがある。世界中にディズニーランドはあるが、それぞれの国においてミッキーのキャラクターは描かれ方が微妙に異なっている。例えば、フランスのミッキーはお茶目だし、日本のミッキーはいわゆるデキる男なのである。他方、オリジナルのミッキーはといえば一番シンプルで、最大公約数的な存在でもある。日本人がアメリカに行ったときにミッキーのキャラクターの個性の違和感に気づかないだろうが、アメリカ人は日本のミッキーのあり方に違和感を覚えるはずである。

つまりある程度の改変の余地がオリジナルのものに認められていなければ、世界的なものにはならないということである。極端な個性が極端な成功を生むと言われるが、世界的に普遍な存在になるためにはオリジナルのものはできるだけシンプルであった方が良いのかもしれない。

 

 

話を日本に戻して

漫画に関しては、一部の熱狂的なファンがいるものの普遍的に受け入れられているかといえばだいぶ疑問符が残るし、芸能界においてはガラパゴス化が著しく進んでると思わざるを得ない。新しい俳優や女優を売り出すために事務所とタッグを組んだ映画が作られ、日本アカデミー賞はノミネート時点で全員の受賞が決まった上で最優秀賞を決める大会に過ぎない。これでは本家に遊戯会程度のクオリティでしかないと言われても仕方がないし、黒澤明監督が「権威のない賞はいらない」と言って辞退するのも一思いに批判することはできないのではないだろうか。

確かに実力主義・狭小主義の弊害は少なくない。国家の成長と引き換えに、個人間のトラブルは増えるし、幸福度といった指標は下がる傾向にある。競争主義を完成させたアメリカは精神科医や弁護士の数が人口比と比べても日本の20倍はあると言われるし、決して国家の豊かさが個人の幸せにつながるわけではない。

 

韓国のコンテンツパワー

実は韓国のコンテンツパワーが成功したのは、国内市場の狭さという要因も絡んでいる。韓国の市場自体は東京程度の規模しかなく、大きな売り上げを狙うためには初めから海外市場を狙う必要があった。その点日本は市場が国内だけで十分に完結してしまう。それは何もエンタメに限らないが、日本においてコンテンツパワーを駆使して世界展開をしているのは、レクサスの北米戦略ぐらいではないだろうか。グローバリズムが進んだ現代において日本の市場の成熟度というのが裏目に出てしまったのかもしれない。

しかしながら、やはりこうした韓国のエンタメ業界が担っているような「大衆文化の画一性」というものは、コロナで分断が進む世の中において、人種間の平等性を担保するし、国境を超えた統合資源ともなりうる可能性を秘めている。

こと韓国との関係性に限れば、問題は山積みであり、日本はこれまで以上に国益を主張していかなければならない。しかしながら政治レベルと文化レベルの話はやはりいくらかは区別する必要があるだろう。いくら文化的な連続性が強くとも、文化の相互交渉は新たな知的エネルギーを生むし、文化レベルにおけるお互いの反目はお互いにとってのメリットはほとんどない。貴重なエネルギーを空費させるよりももっと生産的な方向に関心を向けた方がいいのではないだろうか。

 

  • 自己紹介

Yutaro

慶應義塾大学文学部4年 /TOEIC960 / Python歴2年(独学)、PHP,Javascript歴5ヶ月(業務)/ 応用情報技術者 /(⬇︎ホームリンク)

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