アメリカに住んでいる日系人は全部で146万人いると言われ、総人口の0.45パーセントを占めると言われる。都市別で見るとカリフォルニア>ハワイ>ニューヨーク>ワシントンとなり、ハワイにおいては人口の1/5を占めるという。(現ハワイ州知事も沖縄にルーツを持つ日系人)
これまで数多くの移民を受け入れてきたアメリカだが、人種別に見るとそこまで日系人というのは多くない。これは日本が経済的に豊かであり、わざわざアメリカに行く必要がないことが大きいとされる。そのため偽装結構、不法就労の恐れがなく、他国籍に比べ市民権取得やVISA発行のハードルを低いとも言われる。
そんな決して多くはないものの、日系人はアメリカにおいて非常に大きな影響を持った。そんな日本にルーツを持ちながらアメリカに身を捧げた日系人について今回は取り上げようと思う。
日系人の特徴
まず日系人の特徴としてユダヤ系と並んで教育水準が高く、勤勉で熱心だと言われることが多い。SAT,ACTのスコアはトップクラス。また数学の平均点もアメリカ全体の平均と比べて著しく高い。また敵国として差別に晒されたため、彼らは早くからアメリカへの忠誠を示し、同化傾向が強かった。そのため民族同士で固まり相互扶助を行うといったことが少なく、チャイナタウンのような民族街を形成せずに堅実なアメリカ国民としての道を歩んだという。(わずかにサンフランシスコ、ロサンゼルスに日本街としての名前を留める)。
そんな日系人がアメリカ人に同化していく過程で、日系人の地位を著しく向上させることになったのが、第442連隊戦闘団である。
第442連隊戦闘団
第442連隊戦闘団とは第二次世界大戦時に日系人のみで形成された陸軍の部隊で、アメリカ合衆国軍史上、最も多くの勲章を受けた部隊とされる。18000の勲章と賞を受け、民間人に与えられる最高位の勲章、軍における最高位の栄誉、アメリカ陸軍としては初めて大統領から部隊感状を受けた。
しかしながら当初は敵国人部隊としてすぐに評価されることなく、本国に帰還後も厳しい視線に晒されることも少なくなかった。しかしながら戦後のしがらみがなくなり、1960年に公民権法が施行されたあたりから再評価が始まり、現在ではアメリカ軍隊の中でも最も優秀な部隊とされている。その激闘ぶりは31.4パーセントという驚異的な死亡率に示され、また彼らのアメリカへの忠誠心は著しく高かったとされる。
第442連隊戦闘団とオバマ大統領
第二次世界大戦時、アメリカはかなりの確率で日本軍がアメリカ本土に上陸すると考えていたようで、ロサンゼルスからロッキー山脈まで日本軍が進駐した場合のシミュレーションまで行っていた。そのため、日本人を強制収容所に入れていたが、植民地人の解放をうたっていたアメリカにとって、日本人を収容することは当然矛盾していた。そこで日系人部隊を立ち上げることでこの考えを反駁しようとしたのである。
そこで日系人収容所内で軍隊の募集をかけると何と定員の6倍以上が志願してきたという。結成されたばかりの442連隊は、当然日本相手に戦うということはなく、まずヨーロッパに送られドイツなど枢軸国側と戦った。ローマ解放、ブリュイエールの解放、テキサス大隊の救出(アメリカ陸軍10大戦闘の1つ)、ダッハウ強制収容所の解放など戦果をあげたことが知られている。
ちなみにこのテキサス大隊の救出はルーズベルト大統領直々の命令のもと行われ、ドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。テキサス大隊211人を救うために442戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失ったという。ちなみに解放した際、テキサス大隊が442連隊に対してジャップ部隊なのかと皮肉ったため、日系人少佐は「俺たちはアメリカ陸軍だ。いいなおせ!」と胸ぐらを掴んで激怒したという。
442連隊は歩兵大隊のみ今なお存続しているようで、ベトナム戦争、イラク任務等に当たったとされている。現在、敵のみならず偏見にも打ち勝った例としてアメリカ陸軍士官学校において442連隊の歴史は必修科目となっている。
次に具体的な日系人を取り上げる。
政権中枢の日系人
エリックシンセキ(日本名:親関けん)
日系人として初めてアメリカ陸軍のトップまで踊りつめた人物。
名門ウエストポイント士官学校卒業。
真珠湾攻撃の翌年にホノルルで生まれ、第二次世界大戦では前線で指揮をとった。その後、アメリカ陸軍のトップまで踊りつめ、イラク戦争などを指揮。しかしながら軍のトップにアジア人がつくことに対する風当たりは強く、政権内で孤立。少数精鋭を訴える国務長官と対立し、ついには追放されてしまう。しかしながらイラク戦争でアメリカ陸軍の少数精鋭部隊の失敗が伝えられるとシンセキの評価は再び上昇、公聴会にてシンセキが正しかったことが証明され政権に復帰。人種差別的な感情から彼を追い出したとされるラムズフェルド国防長官が今度は更迭になった。のちに退役軍人省長官。
ノーマンミネタ(峯田良雄)
アジア人として初の閣僚経験者。サンノゼ市長。商務長官、運輸長官。(日本における経済産業大臣、国土交通大臣)を経験。ロッキードマーチン副社長。
サンフランシスコ近くサンノゼ生まれ。幼少期は日系人収容所に投獄された。卒業後はUCバークレーで学び、日系人として初めて本土大都市の市長に就任(サンノゼ)。ロッキードマーチン副社長を経験したのち、ワシントン入り。クリントン政権下で商務長官、ブッシュ政権下で運輸長官。
9.11発生時は運輸長官を務めていたため、全米の航空網の管理、対応に追われた。同時多発的テロを受けアラビア系に対する差別措置が本国でも合法的に取られたが、日本人として差別された幼少期の経験からミネタはこれに断固反対。
現在シリコンバレー有する大都市サンノゼ市の空港にノーマン・ミネタ・国際空港の名を残す。
ダニエルKイノウエ(井上健)
上院仮議長(議長は副大統領)。閣僚ではないものの、大統領継承順位3位にまで上り詰め、アジア人としては最高位の地位を得た。大統領継承順位は実質的なアメリカ政権内での権力の大きさを示す。
ハワイ生まれ、戦時中は442戦隊に属し本国帰還後、アメリカ議会下院入り。その後上院仮議長。
初めて議会入りした際、アメリカでは国家に忠誠を示す。その際右手を挙手して宣誓をしなければいけないが、イノウエは右手を戦争で失っていたため左手を上げた。この時代はまだ議会内にも日系人に対する偏見が強かったというが、若き米兵としてアメリカのために片腕を失ったことがこの時わかるとその瞬間、議会内は静まり返ったという。
生涯にわたって日本との関係を重視し続け、慰安婦問題や原爆問題に取り組んだが、2012年にアメリカ本土にて死去。
死去に際してオバマ大統領は「真の英雄を失った」と声明を発表。それに続き、国務長官、国防長官、両議院の院長が相次いで声明を発表し彼の功績をたたえた。歴代のアメリカ議員としても32人目、アジア人としては初めて、アメリカ合衆国議会議事堂中央広間に遺体が安置された。相当な愛国者だったと言われ、最後の言葉は「アロハ」だったとされる。
アメリカ海軍駆逐艦他、ホノルル国際空港にダニエルKイノウエ国際空港として名を残す。
オバマ大統領も出席したダニエルKイノウエ追悼式典
以上、日系アメリカ人として、アメリカ国内において非常に大きな功績を残した人物を取り上げた。もちろんこれは一部に過ぎず、その他大勢アメリカで成功を収めた日系人がいる(サイバー軍長官、情報局トップ、太平洋軍司令官など)
真珠湾攻撃からまだ100年も経ってないハワイの最大の玄関口に日系の名前をつけるところにも見られるアメリカの懐の深さ。出自が何であろうと、努力さえすれば裸一貫でも成り上がることを許してくれる国。まさにこれら日系人は差別と戦いながらアメリカンドリームを体現した者たちと言えるのではないだろうか。