ロンドンに四日ほど滞在したのち、フランスへは船でドーバー海峡を渡ることになっていた。お昼前に、一緒に旅をしている友とロンドン・チェルシーにあるホテルをチェックアウトし、外に出た。
駅に向かって2週間用の大きなスーツケースをゴロゴロ引いてると、突然路肩に車が停車し、
『ヒースロー空港まで行くのか?乗せていくぞ!』
と男性が僕らに声をかけてきた。そこで自分が
『ポーツマスから船で渡ります』
と返答すると、そうかと言って男は車を発進させていってしまった。今思えば誘拐事件も多発するこのエリアで見知らぬ者の車に乗っけてもらうなんてことは考えてみるだけでも恐ろしいことなのだが、当時はロンドンの安宿の固いベッドでうまく眠れず疲労も溜まっており、仮にも自分たちをポーツマスまで連れて行ってくれるのなら喜んで飛び乗ったかもしれなかった。
ロンドンの街並み
そもそも今回の旅行は大学で知り合った同大学の友人とヨーロッパを縦断しようと計画したものであった。ホテルから移動手段までほぼ全てを友人に任せっきりにしてしまったが、彼は非常に上手に手配してくれた。今思い返してみてもよく、大学一年生の身ながらよくそんな旅行ができたもんだと感心する。
彼によると船は夜8時ごろの出航で、フランスには朝つくことになっていた。時間はおよそ11時間で、今晩は船で過ごさなければならない。日本語での情報はおろか、フランス系の船であったため船旅に関する情報はほとんどなく、友人にはシャワーは勿論ろくにご飯食べれないような最悪の状態を想定していた方がいいと再三にわたって注意されていた。恐らく東京湾を周回するような小さなフェリーのようなものだと思われた。
まだフェリーの出航までは時間があったので、ロンドンの街の外れにあるイタリアン料理屋で昼ごはんを済ませ、赤い二階建てのバスでロンドンを周遊してからバスターミナル駅まで向かった。日本と違ってイギリスには全国を蜘蛛の巣のように網羅する鉄道網は発達していない。そこでポーツマスに行く際もバスを利用しなければならない。ロンドンからポーツマスまではおよそ4時間かかる。
ロンドン中心部にあるバスターミナルからはスコットランドやリバプールといったイギリス各地の都市へ向かって高速バスが走っているようだった。我々はイギリス南部行きのバスに乗り込み、スーツケースを運転手に預けた。
ロンドンの夜景
確かにロンドンは絵のように美しい端正とした落ち着きを備えていた街であった。屹立している高層ビル群は、過ぎ去った時代の精神が宿る教会、パブの雰囲気と上手い具合に調和し、街全体が知的でヨーロッパらしい静謐さに包まれていた。料理は美味しくなかったが、中世の残影を色濃く留める古色蒼然たる街並みは文化的にも洗練されていた。
ロンドン橋を渡る際、バスの窓からロンドンの街を振り返ると、静かに凪いだテムズ川にビックベンが影を落としていた。ケンブリッジに行けなかったのは残念だったが、長い人生また来ることはあるだろう。
バスに乗ること3時間。やがてバスは海岸沿いを走るようになった。隣で友人はバスに揺られながらひたすら留学先に提出する書類の準備をしていた。ロンドンとサンマロの二点を結ぶだけのバスではないので、停車する際はきちんと自分で地図とアナウンスを確認していなければならない。無論、二人ともイギリス訛りのノイズがかったアナウンスを聞き取るほどのリスニング力はないのでグーグルマップに頼らざるを得なかった。
サンマロに着く頃にはすっかり夜になっていた。バスを降り、運転手がスーツケースを1つずつ運び出した。ちょうどこの時バスを降りてすぐ友人がトイレに行ってしまったので運転手にそう伝えると、彼女は剣幕を変えて怒り出した。やがて友人が戻ってきたので状況を説明すると、運転手の女性は今度は私の友人を詰問し始め、なんでこのタイミングでトイレに行ったのか理由を聞いてるの!!と長々と説教を始めるのである。英語のアクセントからしてコックニーと呼ばれる労働者階級に属していることは推測できたが、運転手の女性は執拗に友人を詰問した。こちらはソーリーソーリの一点張りだったが、1分ほど怒られたのちに、スーツケースをようやく渡してもらえたのだった。
サンマロの街並み
サンマロは船のターミナル駅だけあって非常に活気のある街であった。港近くにはプールを兼ね備えてようなホテルが乱立しており、街の中心部には日本でいうアウトレットようなショッピングセンターが広がっていた。半日はゆうに時間を潰せるような場所であった。
しかしながら、異国の地で外人に怒鳴られてしまったこともあり、お互い外国というのにすくみ上がってしまってたため、まずは船の乗り場へ向かおうということになった。自分たちが乗るフェリーのターミナルはそこからさらにタクシーで10分ほどの離れた場所にある。活気がある街とはいえ、日本人はおろかアジア人が来ることは滅多にないような地域で非常に心細かった記憶がある。警備員や街ゆく人に道を尋ねながら何とか目的のターミナルに着くことができた。
船のターミナル駅は二階建てになっており、職員も小さな売店を除いて誰もいなかった。海にも面しておらず、ここからどうやって船に乗るのかも、出国手続きをどうするのかも皆目見当がつかなかった。売店には救命胴衣が売られており、僕らの心は余計に心細くなった。
フェリーターミナル(ご覧の通り本当に誰もいなかった)
それでも時間になると人がちらほら見え出し、7時過ぎになってようやく職員の姿も見えるようになった。チェックインを済ませると、屋外に連れて行かれた。どうやらここからバスで船まで向かうということだった。
バスには20人ほど乗っていただろうか。後続のバスも来ないようで、これで全ての人は乗り切ったように見えた。これだけの人数しか運ばないようなら相当小さい船に違いない。私は思わず17世紀のイギリス小説に出てくるような帆船を想像した。
不安になりながらもバスに揺られ、やがて港に降ろされると、驚くべきことにそこには何とフェリーと形容するにも不適当な非常に大きな船が待機していたのだった。船の入り口は非常に高いところにあり、5階ほど階段を登らされた。
フェリー乗り場。右に停泊している船がこれから乗る船
船の入り口には二人のイギリス人が立っており、そこで彼らにパスポートとチケットを見せるように求められた。そこで僕がヨレヨレになったチケットをポケットから出し見せると、そのイギリス人は
Everything is in the pocket!(全部ポケットに入れてんのか笑)
と僕を見て笑った。出国検査も荷物検査もなかったことに驚いたが、今考えてみれば当時はまだEUなので当然である。
船に乗り込むと中は大層広く、エレベーターが階下から屋上まで突き抜け、先頭の広間では既にダンスパーティーまで開かれてる始末であった。どうやら大抵の者は車でそのまま乗り込んでくるらしい。
船内のバー
船を散策してみたかったが、スーツケースをゴロゴロ引いて回るわけにも行かなかったので、まずは自分の席へと荷物を運んだ。映画館のシアターのように幾つも部屋があり、その中に席が一様に同じ方向を向いて並べてあった。そのうち1つが自分の席であった。前方はガラス張りになっており、テラスのようになっていた。
まずは夕飯を食べようと二人で船内のレストランへと向かった。途中エレベーターで同乗した老人にドアを開けておいてやると彼はメルシー(仏語でありがとう)と言ってその場を去っていった。なるほど、ここは既にフランスなのか。どうやら船に乗り合わせてる人の会話を聞いても聞こえてくるのはフランス語ばかり、イギリス人はこの船にあまり乗っていないらしい。おまけに日本から持ってきたクレジットカードも使えないことが判明した。ユーロはまだ一銭も下ろしていなかったので、結果、一文無しで大陸に入ることになってしまったのだった。
私の友人はヒースローに降り立った際、イギリスには英語を産み出した国としての矜持を感じると僕に言った。確かに国の玄関と言える空港にすら英語以外の表記はなく、街のどこを歩いてみても非英語話者に対する配慮というのがなかった。アメリカの観光地に行けばせめて英語の下にスペイン語で案内くらいは書いてある。
しかしながらフランスはフランスでまた自国の言語に誇りを持っているようであった。ボンジュール、メルシー、ボンソワール。英語に対する配慮はあったが、それでも日本などに比べ自国に対する言語意識というのは高い。後日、イタリアでボンジョールノ、グラッチェと言えば、あなたイタリア語知ってるの?と現地人が反応してくるのとは大きな違いであった。
船には自分以外のアジア人は乗っておらず、歩けば行く先々でで人の視線を引いた。肩身の狭い思いをしながらもレストランでサッと夕飯を済ませ、ダンスパーティーには当然参加する勇気もなく早々に自身の部屋に戻った。
船の甲板
船が出航する時間になると僕は一人甲板に出て、船が出航する様を見守った。あたりは目路の限り果てしなく闇が広がっていた。ポーツマスの夜景はことのほか美しかった。港町の黄色い光が街全体に散りばめられ、出航を知らせる汽笛の音は僕の心を弱く酔わせた。
船旅はここから7時間。一眠りしてしまえばすぐ着くだろうと思って部屋に戻り目を閉じた。
深夜3時過ぎだろうか、トイレに行きたくなったので目を覚まし辺りを見渡してみると隣に座っていた友人がいない。一体どこへ言ったのだろうかと心配になりながらトイレに行って戻ってくると、何と彼は船の冷たい廊下の上でスーツケースを枕に眠っているではないか。既に船内も暗くなっておりよく目を凝らしてみると他の者も皆床に直接寝ている。どうやら友人もそれに倣って床で寝始めたようだった。
自分も一旦は席に戻って寝始めたが、一度体を伸ばして寝れるということを知った以上、気になって眠ることができない。手荷物を置きっぱにして廊下に寝てしまうのは少々気になる事ではあるが、それは飛行機でも同じだと考えついには自分も廊下にスーツケースを置き、枕にして寝始めた。
4時間後。既に明るくなり、周りの者もモソモソと何やら動き出したので、自分も目が覚めてしまった。部屋に戻り手荷物が全てあることを確認し、一人で朝日を浴びようと甲板に出てみた。ちょうど老夫婦がいたので、何とは無しにこれからモンサンミッシェルに行こうと考えてるんですと声をかけてみた。
すると夫婦はニコリとした顔で、
「そうか。モンサンミッシェルか、それはいいね。でも行き方は難しいか大丈夫なのか」
と言ってきた。実はモンサンミッシェルに行くことは僕ら二人の総意ではなかった。友人はモンサンミッシェルは行くのがすごい難しいから辞めておこう旅行前から再三僕にも言ってきたのである。しかしながらせっかく近くまで来ているのだから多少行くのが大変でも見ておくべきだというのが僕の意見であった。
サンマロの朝陽
間もなく、船はサンマロに到着し、朝食をとることなく友人と共に船を降りた。”station”すら通じないフランスの片田舎に取り残された僕らは他の乗客と違い交通手段を一切持たない。この後友人とはモンサンミッシェルに行くかパリへ直接向かうかで対立し、ますます険悪な雰囲気になっていくのだった。