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イタリア北上紀

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パリのシャルル・ド・ゴール空港からローマのフィウミチーノ空港へはおよそ2時間で到着する。まず機内で驚いたのは、乗り合わせた乗客の読書率の高さである。誇張でもなしに、およそ半分以上が本を開いて読んでおり、スマホをいじってる人は少数であった。言語からしてもフランス人が多かったことは容易に推測されたが、さすがはユーゴーやカミュを産んだ世界最大の文学先進国である。

飛行機でいう2時間はあっという間だ。ライアンエアーと呼ばれる聞いたこともない航空会社の双発のエンジン飛行機であったが、席は満席のようで乗客のほとんどがフランス人であった。一緒に乗り合わせた友人とは席がだいぶ離れており、飛行機の後方ではフライト中ずっと赤ん坊が泣いていた。

 

ローマのフィウミチーノ空港に着いたのは夜の11時。着いた時には知らなかったのだが、今晩はローマには向かわず、空港近くのホテルに泊まるようだった。

フィウミチーノ空港は別名レオナルドダヴィンチ空港とも呼ばれ、ローマ最大の空の玄関口となっている。しかしながらPIGSと呼ばれるようにイタリアの経済状況はEUの先進国の中ではさほど振るわず、空港もパリのシャルル・ド・ゴールやロンドンのヒースローに比べるとやや寂れているようだった。夜遅いというせいもあってか、交通手段のアナウンスすらなく、我々はしょうがなくUberを利用することになった。

空港ということもあってか、すぐにUberは捕まった。空港から少し離れ、立体駐車場の前でUberが我々をピックアップしに来るのを待った。途中、脇でイタリア人女性と老夫婦がすれ違った。すると老人男性は事もあろうに、女性に対して「どこに行くの?車に乗せてあげようか」と声をかけたのである。ナンパである。すぐさま、傍にいた女房が「いいわよ、そんなの」と半分怒って老人の腕を叩いて引っ張っていったが、さすがは情熱の国イタリアである。

 

待つこと、20分ほど。何やら呼んだ友人の様子がおかしい。アプリのマップを見せてもらうと、我々をピックアップしてもらうはずの車が、迷っているのか駐車場をぐるぐると回っている。その後も大人しく待てども、一向にこちらに向かってくる気配がない。業を煮やした友人が直接電話をかけても出ないため、料金は既に取られてしまったが、ここで海外でピックアップサービスを利用するのは危険と判断し、大人しくタクシーを利用することにした。

しかしUberを待ってる間にすっかり、時計の針は12時を回り、消灯とともに空港の人はどんどん引き払っていった。気づけば周りには現地人と思しき人が十数人いるだけで、我々はイタリアの空港にポツンと残されてしまっていたのだった。


Uberを待ってる時。まだこの時は明るかった

その場で手をあげて通りかかったタクシーを止めると、どうやら今日はローマ市内に行く観光客しか乗せていないという。さらに運転手によると、この時間に近場で済ますタクシーを見つけるのは大変だというのだった。

その後も、スーツケースを引っ張り、空港のターミナルを大人しく彷徨っていると、白いハイエースの周りにスーツケースを持ったイタリア人が集まっているのが見えた。そこで、その運転手らしき人に近づきホテル名を告げると、彼は有無を言わさずスーツケースをトランクに投げ込んだ。白タクかどうかも判断がつきかねていたが、この期に及んで精神的にも体力的にも他の車を探す余裕は到底なかったので、誘拐さえされなければ…と言い聞かし、二人でハイエースに乗り込んだ。

その後も何人かイタリア人が車内に入り込み、ぎゅうぎゅうの車内で、見ず知らずの外人と深夜1時のイタリアを30分近く車で揺られた。正直言ってこの時がヨーロッパ旅行の中で最も怖かった瞬間かもしれない。

およそ20分後、ハイエースはちょうどホテルの前に到着し、運転手はスーツケースを放り出して去っていった。確かにお金は高く取られたようだったが、ちゃんと目的地にはついてくれたので安心した。

泊まるホテルは既に消灯していたので、玄関口のインターホンを鳴らした。やがて中から若いお兄ちゃんが目をこすりながら出て来て、そそくさとチェックインを済ませてくれた。ホテルというより、二階建てのペンションのようなもので、こじんまりとしたものであったが、部屋は十分な広さで、着くや否や目覚ましもかけずに二人でベッドに寝転がりそのまま寝てしまった。

翌日は外からこんこんと誰かがドアを叩く音で目を覚ました。ちょうど友達がシャワーを浴びていたので、自分がドアから顔を出すと既にチェックアウト時刻の11時を過ぎたので早くしてくださいと昨日とは違う女性が言うのであった。急いで友人に大声で声をかけ、ものの5分でチェックアウトした。

外に出てみると、あたりは灼熱の太陽が照りつけており、非常に眩しかった。常に曇天のロンドン、時折小雨ちらつくパリと、我々がヨーロッパを南下してきたことが、天気からも伺えた。イタリアの文学というのはあまり知らないが、なるほど、こんな陽気な天気の下では人間の根源的悲哀についてひとり考えを巡らすということもできそうに無い。

ここからローマへはバスで行くことになっていた。近くのイタリアンレストランでピザ一切れを食べ、バスを待った。空港近くということもあって、中国人観光客が列をなして道を歩いていた。


ローマの中心地

ローマはこれまでのヨーロッパの都市とは明らかに違っていた。まず高いビルは聳え立たないし、道路はローマ期のまま石畳である。そのためスーツケースを非常に転がしにくく、歩きにくい。おまけにスリやジプシーがたくさんいるということで移動には大変苦労を要した。ようやく市内のホテルに到着しても、管理人はおらず、既に宿泊していた観光客に声をかけて管理人を呼んでもらうという始末であった。

この頃には16日間に及ぶヨーロッパ旅行の疲れが出てきたのか、ぐったり疲れ、喉も痛くなっていたので風邪薬を併用するまでになっていた。ローマでは二日過ごしたが、ほとんどをホテル内で過ごし、コロッセオにも古代ローマ期の遺産にも行かなかった。かろうじてバチカン市国に行き、最後の審判だけは見たが、その時も友人は一人ホテルで勉強していた。夜はイタリアンレストランでワインを乾杯したが、何もロマンスは起こることなくホテルに帰って風邪薬を飲んで横になった。

翌日から明後日までは別行動をすることになっていた。自分はアメリカ語学留学先でステイ先が同じだったイタリア人宅に一晩だけお邪魔になり、友人はベネチア観光を一日多く楽しむことになっていた。もう少し余裕をもたせたかったが、限られた日数でベネチアとローマをそれぞれ見るということで苦肉の策であった。

自身が1日だけ滞在したアレッツォはいい街であったが、ローマなどとは比べ街の人が冷たかった。アジア人であるというだけで好奇の目に晒されるということは、昨今アメリカでもフランスでも聞いたことがなかったが、やはりイタリアの田舎町だと未だにアジア人として生きるというのは楽なものでは無いと改めて感じた。ステイ先の家族はとても良い人で、一緒に同行した友人が先にベネチアに行ってしまったことを残念がっていた。両親は英語が喋れず、娘二人は英語が喋れるということで、いい教育を施したのだろう。確かに偽善的な側面もあることは経験からも十分承知していたが、欧米の表面上は惜しみなくお互いを褒め合うという文化はすこぶる健康的で、日本が抱える本質的な生きづらさを少なからず解消してくれるかもしれないと思った。(イタリアの友人との出会いついては→語学体験記-3章 最悪の晩飯


アレッツォの街並み

翌朝は、イタリアの高速鉄道に乗って、一路ベネチアに向かった。鉄道車内でスリの多いイタリアであったが、ベネチアまではぐっすり昼寝をした。目を覚ますとすっかり両岸は海であった。ベネチアは御存知の通り、潮の流れで形成された島の上にあり、本土からはやや離れているのだ。

友人が既に滞在しているホテルはベネチアのだいぶ奥まったところにあった。ちなみにベネチアは車両の乗り入れが一切できなく、移動手段は徒歩しかない。おまけに川が島を2つに分けており、橋も数本しか掛かってないため、奥の島に渡るのは非常に大変であった。道路区画なども整理されているわけでなく、同じような道が迷路のように永遠と続いているため、目的地までたどり着くのはかなり困難である。しかしながらこの迷路みたいな路地がベネチアの魅力の一つでもある。


ベネチアの路地

駅を降りて、早速ホテルの方向へと歩みを進めたが、ものの5分で人もすれ違うのが困難なような路地へと入り込んだ。何かの奥深くに迷い込んだような息苦しさを感じたが、狭い路地が網目状に張り巡らされ、小さな川がいたるところに流れているという様は何とも形容しがたい美しさであった。

この旅行では最後に一晩だけ訪れる場所としか考えていなかったが、ベネチアはこれまで行って来た全都市の中で間違いなく最も美しい場所だった。中世の残影を色濃く残し、町中に張り巡らされた水路はギラギラと太陽を反射している。カーニバルの季節であったため、人々は皆仮面を被り、陽気にカヌーで人がイタリア民謡を歌い上げていた。

直線距離にしてみると、せいぜい徒歩で20分程度であるのにも関わらず、1時間たっても一向にホテルに辿り着かないので、途中川岸の階段に腰掛け、駅で買ったサンドイッチとバナナをほうばった。橋を渡るたびにスーツケースを持って登り降りしなければいけないのがひどく苦痛であった。ふと前日に友人も全く同じような思いをして、ひとりホテルに向かったのだろうと考えると思わず苦笑した。

その後も、道ゆく人に尋ねながらホテルへと向かった。ホテル付近の行き止まりの路地で一人スマホを調べていると突然背中を押された。

振り返ると友人であった。彼は既にベネチアの街の大概を知り尽くしたようで、持ち前の人当たりの良さで早速、昨晩は現地人と夕食をともにしたという。自分たちが泊まる部屋はカナルビューと呼ばれる川に面した部屋で、部屋の窓からは時折ゴンドラをこぐ人の頭が見えた。


部屋の窓より

早速、スーツケースをアンパックし、友人に案内してもらいながらベネチアの街を歩いて観光した。既に夕方であったが、陽が地中海に沈むにつれ、街はいよいよ活況を呈し、カーニバルの音楽とともにより一層中世の趣を強めていった。カーニバルと聞くとブラジルのリオのカーニバルが有名だが、ベネチアの方は仮面舞踏会(マスカレード)としても世界で名高い。階級社会であった中世に、仮面をつけることによって、人々が身分や立場、年齢を忘れて日々の鬱憤を晴らしていたという。

ローマ以来、日本人を全くといっていいいほど見なかったが、流石にベネチアでは日本語もちらほらと聞こえた。ちなみに現地で販売されているカーニバルマスクは、鼻の低い日本人には位置が合わず息苦しいのだとか。


ベネチアの夜

それにしても水路を跨ぐための橋が至る所にかけられているが、完全な海上に発達した街というのは不思議な感じがした。観光地ではあるが、この地で生活を営んでいる人もたくさん暮らしている。中世のペスト流行期も耐え抜いたベネチアの街の底流を流れる水面には、なにか不気味な妖気が漂っている気がした。

ヨーロッパ旅行最後の一日を心ゆくまで過ごしたかったが、体力の限界が来てしまったため、最後の夜は早めに地中海に面した少し高級なレストランに入りワインを飲んだ。酔いの回った頭で、旅が終わってしまう侘しさと、日本に帰れるという安堵感の間を彷徨いつつ、ぼんやりとイギリスから続いた今回の旅路を思った。

意識が朦朧とする中、画のように美しい街の中で、我々は何か無力感のようなものに絡め取られながら店を後にした。16日間にも及ぶヨーロッパ旅行も明日で終わりだった。肌寒いとさえ言える地中海の風を頬に受けながら、ホテルに帰った。すぐさまベッドに横になり、目を瞑ると、賛美歌の合唱が遠くの方で聞こえた。私はすぐに前後の知らぬ深い眠りに包まれた。それは旅の中でも最も深い眠りであった。

 

  • 自己紹介

Yutaro

慶應義塾大学文学部4年 /TOEIC960 / Python歴2年(独学)、PHP,Javascript歴5ヶ月(業務)/ 応用情報技術者 /(⬇︎ホームリンク)

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