僕は小説をあまり読まない。読んだふりをしているが、実際はそこまで読んでない。新しい作家の本、見ず知らずの本に挑戦して読んでみようという好奇心と挑戦心が欠けているのだ。むしろ一つの文章を何回も咀嚼するように、同じ作家の同じ文章を何回も読み返すことの方が多い。
読書体験とはいったいどんなものだろう。例えば同じ文章を読んでいても、その時々によって受ける印象は違う。バイトまでの時間ひたすら山手線をぐるぐる回りながら読んだ時、愛犬が亡くなったショックを紛らわすために読んでる時、午後の昼下がりにカフェで自分に酔いしれながら純文学を読んでる時。同じ文章であっても、そこから受け取る印象はだいぶ異なる。
例えば目の前に一冊の本があるとする。表紙には赤い背景に黒い文字でノルウェイの森と印字されている。この本を読んで、ある人は自身の経験に照らし合わせて読むだろうし、こんな人生のどこがいいの?て思う人もいるだろう。
文学批評において、テクストとは物理的な書かれた文章のことを指さない。むしろそれは文字の羅列から読者が思い思いにイメージを巡らせ想起されるものである。だからテクストは書かれたことではなく、読者に読まれることによって初めて存在し得るし、10人の読者がいれば、また10の固有のテクストが立ち上がってくる。テクストはテクスチャ(編み物)なのであり、読者と文章の関わり合いの中で織られ一つの形になっていくのである。
そしてテクストは生まれた瞬間に、作者というものを失う。なぜならテクストの主体は作者ではなく読者にあるからだ。人が本を読んでいるとき、我々は作家を知らなくても読書を楽しむことができるし、むしろ作家は読者から創造される地位にある。だからテクストと同じように、読者の数だけ作家が存在する。つまり小説が読まれる時、作者は肉体性を剥ぎ取られ、機能的で抽象的で、我々が創造しうる存在になるのである。ちょっと可笑しくて、直感的には理解不能な話だけど、これがロランバルトでいうところの「作者の死」というものである。
そうした意味で、小説というのは与えられていながらも、ある意味で非常に自由な芸術形式といえよう。小説は最初から最後まで読む間の時間を拘束されるという点で、ミュージカルやオペラなどと同じ「時間芸術」なのであるが、読者の主体性が非常に強い。
読み進めるスピードを調整することもできれば、前に戻って読み直すこともできるし、最初に結末を知ってからそこに至るまでの過程を楽しむということもできる。また文章を小説たらしめる力量が読者のよるものであるならば、当然それを読んでいる周りの環境も非常に重要になってくる。どこで読んだのか、その時流れていたBGMがなんだったのか、他にもページをめくった時に漂った匂いや本のハードカバーの手触り感。。。こうしたものが複雑に絡み合って、立体的にテクストというのが立ち上がってくる。
確かにこのように読み手の数だけテクストがあるとすれば、文学研究は無論やりにくくなる(注釈1)。なぜなら、どこまで理論的に突き詰めていっても、「僕はこう思う」の枠から逃れられない部分が少なからずあるからだ。(無論こうしたことは、卒論研究の上で一旦留保しなければならない)
ただ一方で、読者体験というものには「こうあるべきだ」という正解はない。同じ読書をしていても、ストーリーを読む人がいれば、構造を読む人もいる。自分が楽しみたいように読み、読みたい時に好きな場所で読めばいいのである。
これからも現在進行形で進む「行為としての読書」を楽しみたいと思う。
注釈1: 小説の方法(ポストモダン文学講義) p27 真銅正宏 萌書房